ロシアンゲートの中心人物 トランプの娘婿クシュナー氏 疑惑を全面否定 声明全文


クシュナー氏が議会上院情報委員会での聞き取り調査の前に公表した声明全文(日本語訳) ジャレッドC.クシュナーの議会委員会への声明

2017年7月24日

私は、「トランプを大統領に」キャンペーンおよび政権移行の期間中の私の役割に関して指摘された疑問を明らかにするために、この声明を自発的に発表し、書類を提出し、インタビューにお答えします。
私は注目を集めようとしてきた人間ではありません。まず自分のビジネスにおいて、そして今は公職において、私は目標を達成するために努力しており、メディアや国民のイメージに関する仕事はほかの人々に任せてきました。私に関する憶測や不正確な情報が多く出回っているため、私は事実関係を明らかにするための機会に感謝しています。
「トランプを大統領に」キャンペーンにおける私の役割
私は政権に加わる前は、民間部門で仕事をし、企業を立ち上げたり経営したりしていました。私はビジネスの経験はありますが、政治の経験はありませんでした。私の義父が大統領に立候補することを決めた当初は、私は彼の選挙戦で大きな役割を果たすつもりはありませんでした。しかし、選挙戦が進むに連れて、私は選挙戦のさまざまな仕事を手伝うように頼まれ、増々多くの責任を担うようになりました。

予備選や総選挙でのキャンペーンにおいて、私の役割は進化し続けました。私は最終的には財務、スケジューリング、広報、スピーチ作成、世論調査、データやデジタルなどの各チームとも一緒に仕事をするようになり、外国政府の当局者に対する窓口にもなりました。
これらすべての仕事は、私が過去にキャンペーンで一度も行ったことがなかったものです。私は新たな課題に直面すると、知人に連絡を取り、助言を求め、特定の課題に対処するのに適切な人物を見つけ、その人物と協力して行動計画を策定し、実行しました。私は幸い、その過程で非常に才能豊かな人々と仕事をすることができました。彼ら全員が、キャンペーンの最終的な成功に大きく貢献してくれました。私たちの文化は機敏性に富んでいたため、私たちは絶えず変わり続ける状況に適応し、その状況に応じた変更を即座に行うことができました。私がこの情報を公開するのは、これらの行動が、数千件の会議ややりとりが発生した目まぐるしいキャンペーンの視点を通して見られるべきものだからです。それらの何件かは強い影響力を持ち、記憶に残るものでしたが、それ以外の多くはそうではないものでした。

キャンペーンの成功はそのメッセージとメッセンジャーから始まることを述べておくことも重要です。ドナルド・トランプ氏は、アメリカの正しいビジョンを持っており、そのメッセージを完璧に伝えました。それは結果を見れば明らかです。トランプ大統領は、予備選で16人の熟練した経験豊富な相手を打ち負かして大統領に当選しただけでなく、総選挙では相手の支出の数分の一の支出でそれを成し遂げました。彼は相手より良い仕事をし、アメリカ国民にメッセージを伝えるために近代技術と従来の方法の両方を使って歴史上最高水準のキャンペーンを展開しました。
キャンペーンにおける外国人との接触
義父が共和党の大統領指名候補になることが濃厚になると、例によって外国の何人かの当局者がキャンペーンに接触を図ってきました。私は義父に、これらの外国に対する窓口になるよう頼まれました。これらは私から働きかけた接触ではありません。しかし、キャンペーンの過程で、私はおよそ15の国の人々から接触を受けました。その依頼の規模を分かって頂くために述べますが、私は数千件の電話、手紙、メールを受け取ったはずです。彼らは様々な問題や話題に関して話をしたり会談をしたりるすことを求めており、その中にはアメリカ国外からのものも数百件含まれていました。私は全員に対応することはできませんでしたが、私たちの候補が勝利した場合に、生産的な協力関係を維持するのが重要であると思われる外国政府の当局者に対しては敬意を持って接するよう努めました。その目的のために、私はヘンリー・キッシンジャー博士のような豊富な経験を持つさまざまな人々に頼り、私たちの候補のための政策助言を求めました。それは、私たちのキャンペーンがどの国やどの代表と対話をすべきで、どのようなメッセージなら共感を得られるか、という助言です。また、キャンペーン中は私が1日に200通以上のメールを受け取るのは普通のことでした。私にはすべてに目を通す時間はありませんでした。知らない送信者からの長いメールや、私が後になって加えられたメールの一連のやりとりについては特にそうでした。

キャンペーン中には私とロシアやロシアの代表との接触はほとんどありませんでした。私が覚えている最初の接触は、2016年4月のワシントンD.C.のメイフラワーホテルでのことでした。これは、当時候補だったトランプ氏が外交政策に関する重要なスピーチを行った時のことでした。イベントを開催し、スピーチを行うことは私のアイデアでした。そして私はその実行を仕切りました。私は、すべての手配が予定通り整っていることを確かめるために早めにホテルに着きました。その後、私は隔月の外交政策専門誌、ザ・ナショナル・インタレストの発行者であり、イベントのホストだったディミトリ・サイムズ氏に謝意を伝えるためにレセプション会場に立ち寄りました。彼はすべてをまとめ上げるうえですばらしい仕事をしてくれました。サイムズ氏と彼のグループは、来客リストを作成し、そのイベントの招待状を送りました。彼は私に数人のゲストを紹介してくれました。その中には、ロシアのセルゲイ・キスリャク大使を含め4人の大使がいました。私たちはキスリャク氏を含めた大使全員と握手をし、短い社交辞令を交わしました。私は、イベントに参加してくれたことについて彼らに感謝し、彼らがアメリカの外交政策の新たなアプローチに関する彼のスピーチや考えを気に入ってくれることを願う、と述べました。大使たちも、私たちが選挙に勝利した場合、前向きな関係を築くことに意欲を示されました。それぞれのやりとりは1分にも満たないものでした。何人かは私に名刺をくれ、大使館での昼食に誘ってくれました。私はそれらの招待のどれにも応じませんでした。その程度のやりとりでした。

ロイターニュースは、2016年4月と11月の間に私がキスリャク大使と2回電話で話したと報道しています。私はこの期間に数千回電話で話をしましたが、キスリャク大使とのそのような電話は記憶にありません。私たちは、私たちが利用できる電話記録を見直しましたが、私たちの知るキスリャク大使関連のどの番号への電話も全く見つかりませんでした。私は、それらの電話が本当に行われたのか、かなり疑わしいと思います。私の固定電話と携帯電話の当時の電話記録を包括的に見直したものの、それらの電話は見つかっていません。私は選挙前は大使とは継続的な関係は持っておらず、当時は彼について限定的な知識しか持っていませんでした。実際、選挙日翌日の11月9日に、私はロシア大使の名前すら覚えていませんでした。キャンペーンに、プーチン大統領からの公式の祝辞と称するメールが届いた時、私は、どうやってそれが本物かを検証できるか尋ねられました。私は、それを行う最善の方法は、私がロシア政府の人間で唯一会った記憶がある人物に聞くことだと考えました。それは、私が数か月前に会った大使でした。そこで私はサイムズ氏に、「ロシア大使の名前は何ですか?」とメールで尋ねました。私は弁護士を通し、ロイターに、電話がかけられたとされる日にちや、私がキスリャク大使に電話をかけたとされる、あるいはキスリャク大使からかけられたとされる時の電話番号を提示するよう求めました。そのジャーナリストは、それらの電話が行われたことを裏付ける証拠の提示を拒否しました。

キャンペーン中のほかの唯一のロシアとの接触は、私が議会の情報提示要求に応えて書類やメールを見直すまで全く思い出せなかったものでした。2016年6月に、私の義兄、ドナルド・トランプ・ジュニア氏が6月9日午後3時の会議に顔を出す時間があるか私に尋ねました。キャンペーン本部は、トランプタワーの彼のオフィスと同じビルに置かれており、私たちが互いに求めに応じて相手の会議に顔を出すのはよくあることでした。彼はその後、会議の時間を午後4時に変更する旨のメールを私に送ってきました。そのメールは、長いやりとりの後に送られたものでしたが、私は当時はそのやりとりを読んでいませんでした。私が外で仕事をしている時にほとんどのメールに対してそうするように、私はiPhone上で、会議が彼のオフィスで4時から始まるという旨のメッセージにざっと目を通しました。「会議:ドン・ジュニア|ジャレッド・クシュナー」というカレンダー設定がされており、私の記憶の裏付けは取れています。ほかには誰の名前も記載されていませんでした。

私は少し遅れて会議に到着しました。私がそこに着くと、それ以降ロシアの弁護士と判明する人物が、アメリカによるロシア人の子どもの養子縁組の禁止に関する問題について語っていました。私はなぜそのような話題が議論されているのか全くわからず、この会議に出席しても時間は有効に使えないとすぐに判断しました。最近メールを見直したところ、以下のような私の記憶が正しいことが確認されました。会議は私たちの時間の無駄だったので、私は会議を抜けて自分の仕事に戻るための無礼ではない方法を探しました。私は実際、10分程会議の場にいた後に、アシスタントにメールを送ったのです。「私の携帯電話を鳴らしてくれるか?会議から抜ける言い訳が必要なんだ」と書きました。私はその会議の前にはその弁護士と会ったこともなかったし、それ以来彼女と話したこともありません。私は、この短い会議について、最近思い当たるまでは全く気にしていませんでした。私は、委員会に提出するための書類を見直している時に私の弁護士に見せられるまでは、このメールのやりとりを読んだこともなかったし、覚えてもいませんでした。その会議に私が出席している最中にキャンペーが話題になることは全くなく、私が知る限りその会議のフォローアップは行われませんでした。私はそこに何人の人がいたのか(そして彼らの名前も)覚えていません。提示されたり受け取られたりした書類について私は全く知りません。最後に、私はメールを見た後、この会議があったことを、自分のセキュリティ許可申請書の補足として、メディアで報道されるよりも前に開示しました。申請書の定義を満たすためにそれは義務付けられていなかったにも関わらず、です。

もう1つ起きた可能性のある接触について述べておきます。2016年10月30日、私はGuccifer400という通称の人物から無作為のメールを受け取りました。このメールは、私は作り話だと解釈しましたが、ゆすり目的のメールで、トランプ氏の確定申告書を暴露すると脅し、その情報を公開しない代わりに52ビットコインを彼に送ることを要求する内容でした。私は、私たち全員が乗っていた飛行機の機上で合衆国シークレットサービスの捜査員にそのメールを報告し、彼の意見を聞きました。彼は、それを無視し、返信しないよう私に助言し、私はそれに従いました。その送信者が私に接触してくることは二度とありませんでした。

私が覚えている限り、ロシア政府の代表、あるいは代表の可能性がある人物とキャンペーン中に私が持った接触の程度は、以上のものがすべてです。
政権移行期間中の外国人との接触
選挙後の政権移行期間は、キャンペーンよりもさらに忙しくなりました。選挙日の夜から、私たちには大量の好意的なメッセージや招待状が国内外から届き始めました。外国の当局者からのメッセージも数十通あり、それらは電話首脳会談を計画したり、新政権との連絡ルートや関係を築こうとしたりするものでした。この期間中、私は15か国以上の国の人と50回以上接触したことを覚えています。それらの会議のうち2件はロシアの人とのものでした。どちらも私から呼びかけたものではありませんでした。

2016年11月、私のアシスタントがロシア大使からの会議依頼を受け取りました。上述の通り、この依頼を受け取るまでは、私はロシア大使の名前すら覚えていませんでした。そこで、私はほぼ7か月前にメイフラワーホテルで会った人物の名前を尋ねる必要がありました。さらに、その会議は全く緊急ではなく、2週間後の12月1日に予定されました。会議は政権移行オフィスが置かれたトランプタワーで行われ、20分から30分程で終わりました。国家安全保障担当大統領補佐官になったマイケル・フリン退役中将も出席していました。会議の最中、社交辞令が交わされた後に、私は多くの会議でそうしてきたように、そして外国の当局者に対してそうするように、新たに関係を築き直したい旨を述べました。そして、外国の当局者とのほかの会議でもそうしてきたように、私は、直接議論ができ、ロシアの大統領とも連絡が取れる最善の人物(大使または他の誰か)を指名するようキスリャク大使に頼みました。選挙日の後に対話を始めるための方法について私が尋ねていたという事実は、当然、選挙前にそれが存在していたことを私が知らなかったという強力な証拠とみなされるべきです。

大使は関係について似たような意見を表明し、そのうえで、特にアメリカのシリア政策について議論したい、彼が「将軍」と呼ぶ人物たちからの情報を伝えたい、と言いました。彼は、新政権にとって情報収集の助けとなる情報を提供したい、と言いました。彼は、将軍たちはこの情報を伝えるためにアメリカに簡単に来ることはできない、と言い、政権移行オフィスには会話を行うための安全な回線があるかどうか尋ねました。フリン氏や私は、そのような回線はないと説明しました。私は、人道的危機が続いていたことから、シリアに関する思慮深いアプローチを考案することは非常に優先度が高いと考えていました。そして私は、ロシア大使館に、私たちが使用でき、フリン氏に彼らが伝えたがっている情報を彼らが安心して伝達できる既存の通信ルートがあるかどうか尋ねました。大使は、それは不可能であると述べたため、私たち全員は、大統領就任式の後にその情報を受け取ることに合意しました。ほかには何も起きませんでした。私は「秘密の裏ルート」は提案していません。私はその時のためにも、そして政権が発足した時のためにも、継続的な秘密の連絡手段を提案していません。私は、大使館や他のいかなるロシアの施設も、政権移行期間中の考えられるこの1つの会話以外の目的で使う可能性を提案していません。私たちは制裁については議論しませんでした。

およそ1週間後の12月6日に、大使館は私に、12月7日に大使に会えるか尋ねてきました。私は断りました。その後彼らは12月6日に私が会えるか尋ねてきました。私は再び断りました。その後彼らは、私が会える一番早い日はいつか尋ねてきました。私はそれらの依頼を断りました。なぜなら、私は政権移行のためのほかの多くの仕事に取り組んでいたからです。彼は、代わりに私のアシスタントに会うことができないか尋ねてきました。私は大使の感情を害すのを避けるために同意しました。彼は12月12日にそれを実行しました。私のアシスタントは、大使は私がセルゲイ・ゴルコフという人物に会うことを求めていると報告してきました。大使によると、その人物は銀行家で、ロシアの大統領と直接的なパイプを持っており、プーチン氏が新政権をどう見ているかや、協力のための最善の方法について洞察を示すことができる、とのことでした。私は、大使が執拗(しつよう)だったこと、彼は大統領と直接的な関係を持っていると言ったこと、そしてゴルコフ氏は2日間しかニューヨークにいないことから、ゴルコフ氏に会うことに同意しました。私は翌日の12月13日に行われたその会議のために予定を空けました。

ゴルコフ氏との会議は、20分から30分で終わりました。彼は自己紹介をし、私に2つのお土産をくれました。1つは私の両親のベラルーシの故郷の村、ノヴゴロドの美術品で、もう1つは同じ村の土が入った袋でした。(私がこの会議の存在を隠そうとしたとか、私が実業家の立場でその会議に出席したと考えている、という認識は誤りです。実際、私はアシスタントにそれらのお土産を渡し、それらを政権移行オフィスに正式に登録しました。)その後、彼は自分の銀行について私に少し語り、ロシア経済についていくつかのことを述べました。彼は、自分はプーチン大統領と親しいのだと言い、オバマ大統領の下での米露関係に対して失望を示し、将来の関係改善を望みました。私は、キスリャク大使との会議でそうしたのと同じように、私がほかの外国の当局者と会った時と同じ見解を示しました。具体的な政策は議論されませんでした。私たちは、オバマ政権が課した制裁について議論しませんでした。私の企業、取引、不動産プロジェクト、融資、銀行協定、あるいはいかなる種類のいかなる民間事業についても、議論はされませんでした。短い会議の最後に、私たちは互いに感謝をし、私は別の会議に足を運びました。私はその会議までは、ゴルコフ氏を知らなかったし、彼と接触したことはありませんでした。それ以降、私には彼と連絡を取る理由はありません。

私が覚えている限り、ロシア政府の代表、あるいは代表の可能性がある人物と政権移行期間中に私が持った接触は以上の2件だけです。
私のセキュリティ許可申請書に関する接触相手の開示
私のSF-86書類に関して、多くの間違った情報が報道されています。私と私の弁護士が以前に説明した通り、私のSF-86申請書はミスコミュニケーションのために未完成の状態で提出されてしまい、当初は外国政府の当局者との接触(ロシア人に限らず)が記載されていませんでした。その書類と、それを補足するために私が行った努力に関する事実を以下に記します。

大統領就任式の前の週には、私は、自分の企業との関与を完全に断ち切る、自分の家族をワシントンに移動させる、資産を処分して社外ポストから辞任するための書類を完成させる、セキュリティや財務関連の開示書類を完成させる、といったことを大急ぎで行っていました。そんな最中に、私のニューヨークのオフィスの人間たちが、私が情報を見つけ、それを整理し、見直し、電子形式にするのを手伝ってくれました。彼らはワシントンの私のアシスタントにメールを送り、1つのセクションへの変更が完了したと伝えました。私のアシスタントは、そのメッセージを、書類全体が完成したことを意味すると解釈しました。その時点では、書類はまだ草稿で、外国政府の接触相手を含む多くの記入漏れがあり、私の義父(もちろん有名な人ですが)の住所すらも抜けていました。このようなミスコミュニケーションがあったために、私のアシスタントは2017年1月18日に草稿を提出してしまいました。

その夜、私たちは書類が未完成のまま提出されたことに気づき、政権移行チームに、その書類に変更や追加を行う必要があることを知らせました。その翌日の2017年1月19日に、私たちは補足情報を政権移行以降チームに提出し、チームはその受理を確認し、それをすぐにFBIに送ると言いました。補足情報では、私が「多くの外国当局者と接触した」こと、そして正確で完全なリストを提供するために私たちが私の記録を確認中であることが開示されていました。私は、自分の経歴調査面談や、私の書類に関する問い合わせやメディアの報道の前に、通例どおりにそれらの接触相手のリストを提供しました。

提出された私の書類にはロシア人との接触だけが抜けていたと報道されています。それは事実ではありません。当初誤って提出された書類では、すべての外国の接触相手が抜けていました。その後補足された情報では、書類の質問に回答するかもしれない20以上の国の100人以上の接触相手が開示されています。これらには、ヨルダンの国王アブドゥラ二世、イスラエルのビビ・ネタニヤフ首相、メキシコのルイス・ビデガライ・カソ外務大臣など、多くの人物が含まれています。これらすべての人物が、以前には抜けていました。
この半年、私はFBIに私の経歴を調査するために必要な情報は何でも提供するためにあらゆる努力をしてきました。さらに、私の弁護士は、セキュリティ許可プロセスは、補足が予測され、奨励されるものであると説明しました。書類自体にも、書類の情報は面談の間にセキュリティ許可プロセスの一環として「更新、明確化、説明」できると明記されています。よい例が6月9日の会議です。私が提示したその会議の説明から理由は明らかでしょうが、私はその会議を覚えておらず、それがSF-86に含まれるべき人物との会議だったことももちろん覚えていませんでした。委員会の要求に関連して書類を提示するために見直した時に、私はその会議があったことを思い出しました。そして、私はその時に初めて読んだメールのやりとりにおける言語を見て、その会議を補足情報に含めました。私の弁護士が、ロシアの弁護士が外国の代表であるという結論を出せず、そのためにその書類の範囲外となったにも関わらず私はそうしたのです。この補足情報は、メディアの問い合わせやこの情報に関する報道や依頼よりもかなり前に自発的に提供されたものです。そして、それは私がその会議について思い出してからすぐ後に行われました。
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私が最初のメディアの問い合わせの時から言っているように、私は捜査機関に対してぜひ情報を提供したいと考えています。私はきょう、私には進んでそうする意思があることを示しました。私は隠すことは何もないので、今後も協力し続けます。上述の通り、私は、ロシアの当局者や人々との私の接触に関して多くの憶測が出ていることを知っています。私はそれらの接触を開示し、私が覚えている限り詳細にそれらを説明しました。私が提示している記録と書類は、キャンペーンと政権移行の最中の数千件の接触のうち、おそらくロシアの代表たちとの接触が4件あったことを示すでしょう。それらのどれも、選挙に何ら影響を与えるものではなかったし、特に記憶に残るものでもありませんでした。私は、事実関係を明らかにするための機会にとても感謝しています。私は、キャンペーンにおける自分の役割についても概要を説明するよう努めてきました。私は、私たちが支持した候補、私たちが展開したキャンペーン、そして私たちが勝ち取った勝利に誇りを持っています。

私は、自分自身を擁護するためにメディアに出演したり、情報をリークしたりしないことを自分の慣行としてきました。私は、自分が抱えている重要な仕事に集中し、できる限り大統領やこの国に尽くすよう努力してきました。私は、質問に対する私の回答、書面の声明や文書をとおして、キャンペーンや政権移行期間中に私が持ったロシアの代表たちとの限定的な接触のすべてを示すことができたと願っています。私は、外国政府と結託しなかったし、外国政府と結託したキャンペーン内部のほかの人物も知りません。私は不適切な接触はしませんでした。私は、民間部門での自分の事業活動の資金にするためにロシアの資金を頼ったことはありません。私は、SF-86書類の提出に関しては、必要とされている以上に十分に透明であるよう努めてきました。この声明によってこれらの問題に終止符が打たれることを願います。

【引用元】
https://www3.nhk.or.jp/news/special/45th_president/liveblog/kushner-statement/japanese.html

英文はこちら(別サイトに飛びます)

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